蒟蒻問答、吉田朗が過去作を順不同でふれていきます。
前回の犬張り子 [ Occupied Japan ]で自分の作品と社会との関わりについて触れてみました。ボイスのように政治的な主張を行うのではなく、ある視点から事実を切り取り、立体作品に塗装を施すという手法で組み立て直すということをしているのだと自分では考えています。そこから一転して、今回は明確な社会的コンセプトをあえて持たずに作った作品に触れてみます。
No.48
そらむし
空を切り取る
この作品は風景の切り取りをテーマに制作しました。
ミルクローリー車のステンレスタンクを運転中に見ました。見上げると鏡面加工のステンレスにはバイクにまたがる小さな自分の姿と抜けるような青空が映っていました。アスファルトの国道上に突如現れた青空に、吸い込まれるような気持ちになりました。その青空は心の中に柔らかくふきこむ窓のようにも感じました。
都心のど真ん中に、色々なことを忘れてフッと抜けるような瞬間が作れないかと思い、この作品を制作してみました。技術的には塗装表面を鏡面のように磨き上げ、表面でおこる反射と塗装パターンを立体上で混合するとどうなるか?という点をテーマにしています。
作品に社会的な事象を取り込むのならば、政治活動、社会活動を行った方が良いのではないか? いや、でも立体作品と塗装という手法を用いて一見すると可愛らしい中に社会的な矛盾点やメッセージをこめることで、他の手法では伝わらない何かがあるのではないか? でも、それは社会的事象を自分の作品を現代美術にするために利用しているだけで、なんら社会への還元がないのではないか?‥ いろいろな考え、雑念、邪念が巡っていきます。特に作品を一つ作り終えて、次の作品プランを練っている時にこういった問答が頭の中にあらわれます。
自分はなにをしたいのか?
手を動かして作るのが好きという、単純な衝動があるのも確かです。社会自体の変化スピードがどんどん早くなり、こうでこうでこうなってと考えて制作することで陳腐化してしまうかもしれないと感じることもあります。あえて社会的事象から組み立てることをせずに、感覚的に制作することも現代性を獲得するには必要なのではないかと考えたりもします。
ただ、そうして感覚的に作った作品が、自分の他の作品との並びの中で整合性がきちんと取れていないとも感じていて、きちんと他人様に説明できる状態にまだなっていません。こっち(社会的視点を入れたもの)をやっては反省し、それ(社会的視点)がないものをつくってみては、それでは美術ではないのではないかと自問自答し‥そのあたりの、どうにもならない自問自答をこのブログで触れざるを得ないと思い、タイトルを蒟蒻問答にしました。押しても引いてもプルプルするだけ‥いったりきたり。
ただ、最近はそれらも含めて自分だし、まあしょうがないかなと、そんな迷いと幅があるから切りとれるものもあるかな?と少し開き直りたいなと思って制作しています。十何年もやってきて答えが出ないなら、それも答えかもしれないと考えられるようになってきました(良いのか悪いのかはわかりません)。
9.11 や 3.11 のような大きく衝撃的な出来事が起こった直後には、社会的な隠喩をこめたような作品は圧倒的な事実を前にして成立しづらいし、比較的平穏な時にはその裏にあるなにかを暴くことに意味があるように思います。
めまぐるしく変わるこの時代の、いろいろな時々で作品を作りながら、考えるということをしていて、作品たちはその痕跡なのかなと最近は考えています。
次回も、引き続き社会な事象を取り込まずに制作した作品に触れていこうと思います。