蒟蒻問答、吉田朗が過去作を順不同でふれていきます。

前回のそらむしを社会な事象を取り込まずに制作した作品として紹介しました。社会的視点を直接的に取り込んんだ作品群と、それをあえて避けながら制作した作品群という二つの作品群ができてきました。その二つのなかで迷ったり揺れたりしている感覚があります。

今回は2016年制作の直接的な社会的アイロニーという手法をもちいなかった「えび子供」に触れてみます。

No.67
えび子供

「えび子供」/ ''Prawn child'', 2016, FRP based sculpture

2011年の東日本大震災以降、世界が少し変わったような感覚を持つようになりました。これまでの想像を超えるような様々な事象が次々と発生し、それらが起きるスピードはどんどん加速するのに反比例するかのように、ひとつひとつの事象の重みは軽く感じてしまうというものです。

「猛烈なスピードで移りかわっていく世界の中で起こる一つ一つの出来事を直接的に作品化するよりも、『少し変わってしまったような世界』そのものを表出する方がより現在の状況を表現できるのでははないか」と考え、これまでの「事象に対する直接的なアイロニー」という手法から、「ナンセンス、カオティックな状況を作品に持ち込む」という方法で現代性を表現しようと試みるようになりました。その中で生まれたのが「エビ子供」作品です。

「えび子供」/ ''Prawn child'', 2016, FRP based sculpture

いきなり話がそれますが、情報には幾つかの種類があるように感じています。
・自らの体験に基づく一次情報
・直接体験からの伝聞などによる二次情報
・伝聞の伝聞、恣意的な加工編集などがなされた質の下がった三次情報

私は1976年生まれです。この年代として生きてきた体感として2000年代半ばと2010年代半ばで二度、情報の意味、質が変わる変化があったように思います。それは「情報」という一つの言葉で表すのは無理があるくらいの変化であったように感じています。

情報量が圧倒的に増えるかわりに上記で書いた一次情報が減り(量は同じでも比率が激減している)、1度目の変化の2000年代半ばには上記の3次情報が一気に増え、2010年代半ばには二次情報が伝達される方法が新たに生まれ、その二次情報を元に作られた三次情報が爆発的に増えてきているように感じています。

社会に対する興味の減退と言ってしまうと、表現者としてどうなのかと思ってしまう部分もあるのですが、自分のみ持ち得る視点、独自の社会批判的視点というものを持つのが難しい時代のように感じています。

好きな作家のハンス・ハーケのように取材性に基づいて告発的な意味合いを持つ作品を精度を持って作れるかというと、それは(自分には、現在は)難しいように感じています。

最近知った作家でリチャード・モスという写真作家がいます。特殊なフィルムをつかった写真手法により被写体の前に立つという一次情報を最も少ない加工(加工というより浮かび上がらせるシステム)で鮮やかに鋭く昇華させる作家だなぁと感じました。

で、自分はどうなのかというと生活体験からくる一次情報をもとに、感覚的、造形的に制作することで、現代性を獲得できないか試行錯誤しているのがこの作品なのかな?と考えています。

今回はちょっと話が散り散りになってしまいました。制作しているときは勘でやったので、自分でも言葉にしながら確認しているように思います。

次回も、引き続き社会な事象を取り込まずに制作した作品に触れていこうと思います。

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