蒟蒻問答、吉田朗が過去作を順不同でふれていきます。
この数回、社会的な視点を取り込まずに制作した作品に触れてきました。この社会的視点を入れることで造形的に不自由になるという問題と、造形的なことにのみ専念すると現代美術として成り立つのだろうか?という疑問が制作をはじめた当初の迷いでした。
それが少しづつ、(特に東日本大震災あたりを境にして)自分は社会的な視点で作品を作ろうとしているが、それは社会に還元するためではなく、自分の作品を現代美術っぽくするために社会的事象を利用しているだけで、還元がないスポイルなのではないか?という疑念を自分に対していだきはじめます。自己疑念ですね。
さまざまな支援を目的とした社会への還元がなされる活動が行われるなかで、美術という枠の中で批判を浴びるリスクも少なく社会性という形で世の中で起こっていることとの関連を作る。そんな姿勢で良いのだろうかという疑問がわき、同時に社会的なことから少しづつ興味が失われていきました。年をとったからなのか、社会に対して、批判的なアンテナを張る意欲が薄れてきていました。
そんな中、現代的と思われるモチーフを扱いながら造形的な視点でアプローチする方が、今の自分にとってはリアリティーがあるようなそんな気がして制作したのが先に触れたエビ子供です。また、社会的な視点の作品を作るならば、視点を絞って、きちんと自分の興味と作品の焦点を合わせて制作しないと自分が苦しくなるような気がしています。成長なのか退行なのかわからないですが、いまの気分はそんな感じです。
そういった流れで、社会的な視点を取り込まずに制作した作品があり、何回か連続してそれらに触れてきました。気持ちの揺れ動きの中で過去を蒸し返しつつ、いまどこにいるのかを自ら、あーでもこーでもと探るのか蒟蒻問答です。
今回は造形性を殺して、社会性というのか、世の中に対してこう思うよ的部分を全面に押し出した感じの作品に触れます。
この作品は リサイクル可能な発泡トレーと、それを大理石で模刻したものとを並べた作品です。
かなり古い、2001年の作品になります。社会のニュース的なことに反応するのではなく、世の中にある隠れた矛盾のようなものに着目して作品を制作していました。
一気にニュース性に向かうのは連載彫刻からですね。
あと時代的に90年代後半から9.11のおこる2001年の前半までって、地下鉄サリン事件はあったけれど、自分の感覚では社会に対する不信ってあまりなくて、根本で疑ってはいないというか、揺らぐものではないという感覚をもっていました。これは自分の年代もあるかもしれません。76年生まれなので、このあたりの2000年前後は社会がすこしわかりかけ。根っこでは信頼し、その上で矛盾を探すような、そんなスタンスだったようにも思います。
以下作品に寄せたテキストです。
人類のターニングポイント
人類は文明の発展ともに多くの便利さを手に入れ、その多くはもう手放せないものになっている。
しかし、限りある資源、環境と、私たちの便利な暮らしは、もう折り合いがつかなくなってきています。
そこで現在、社会に浸透しつつあるのが、リサイクルの運動です。資源、環境を守るために、一度使ったものを回収し、様々な方法で再利用する。
このリサイクル運動の中には、何かが隠れている。私はそう感じました。
リサイクル、例えば、発砲トレーをスーパーのリサイクルボックスに入れる。そのことにより、何かとてもいいことをした気持ちになれる。しかし、その根本では使い捨ての容器を使用し続ける。その便利さを捨て、資源を守っていこうとは考えない。
全てのリサイクルに、とはいわない、しかし、いくつかのリサイクルには確実に、「消費社会の中での免罪符」という現代人のエゴが隠されている。
自分としては、石の作品というのはとても珍しいですね。
アイロニーと静けさがある気がします。僕の作品はあんまり静けさがない気がするので、そういった意味でも珍しい作品です。いまの方がもっと説明的に作ろうとする気がします。
そのとき思いついたことをやってみた感じなんですが、自己規定というか、スタイルに全く執着していない感じが、軽さがあっていいなと思います。軽いんだけど、トレーの模刻はしっかりやろうというあたりにちょっと自分っぽさが出ている。
この作品は久々に見返したのですが、技術がついた先でも、軽やかさが持てるといいだろうなと改めて思ったりしました。
次回は文中に少し出た連載彫刻シリーズに触れてみようと思います。