蒟蒻問答、吉田朗が過去作を順不同でふれていきます。
だいぶ間が空いてしまいました。
今回は昨年7月に行った展示の作品について触れてみようと思います。
これまでの作品を振り返ると、
・社会的な事情と関わりをもたせた作品と、
・造形的な興味にフォーカスした作品と、
大きく2つの流れがあります。
この2つの流れについて、書いてみようと思います。
作品を作りはじめたころ、大学生だった時期なので今から20年近く前でしょうか、
「現代美術は難解で、ヤワで、やや神経症的な世界だ」 なんて思いを勝手にもっていて、「だから自己判断されない、固定された評価の受け売りしかされないし、そんなんじゃ面白くないからマイナーなんだ」と思っていました。批判精神旺盛な、生意気な大学生だったように思います。
そして、その認識を前提として作品を作っていくので、求めていたのは「わかりやすさ 説明的であること 自分の感情、感覚を作品に持ち込まないこと」そんなことを信条としていました。責務というと大げさですが、わかりやすい作品をつくることが必要だ!と使命感のようなものを勝手に持っていたように思います。
なので、自作に関して基本的に
・社会的な事情と関わりをもたせた説明的な作品は良い作品で、
・内省的な作品や造形要素のみの作品は悪い作品だ
と考えていました。
ただ、上記の2点にこだわりながら、ちょっと無理して作っていた部分もあったので、定期的に純粋に造形的な作品を作りたくなり「造形的な興味のみにフォーカスした作品」を作っては、自己嫌悪というか、自分の中の定義では「悪い作品」としているものを作ってしまった という罪悪感に苛まれたりしていました。
造形的な満足感と、社会性のバランスが、自分のとりたいバランスでとれないものか? と作品が完成しては反省するということが多かったように思います。
まあ、そんな感じで作品をつくり続けて20年ほど経つのですが、感じ方に変化が出てきました。
特に震災以降になると思うのですが、時事的な社会性を取り入れて作品を作るということに自分の中で疑問をもってしまって(この疑問についてはまたそのうち書こうと思います)、何かを信じて作品を作るということがちょっとしんどいというか、自分の中のループにはまってしまって、完成まで押し切れないというというか、そういった感覚になっていました。なかなかに悶々としていたように思います。
悶々としつつも、アトリエに行って制作を続けていく中で、いくつかテストピース的に作りためていたものがありました。何度もアイディアとして浮かんで、テストしてやっぱりやめていたものなのですが、「ぬいぐるみを買ってきて、そのぬいぐるみに樹脂を吹きかけ、そのまま作品にしようとする」というものです。
昨年夏の展示では「実験的な展示でかまわないし、失敗しても良いので好きにやってほしい。できればあの作りかけているシリーズを形にしてほしい」とキュレーションしてくれてた方に言われ、そこを見てる人もいるんだと嬉しく思いながら、自分の中で未消化でありつつも繰り返し手をつけているテストピース達に向き会うようになりました。
ちょっと長くなってしまったので、また次回つづきを書きます。