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今回はコラージュ川柳備忘録で触れていた「ダサい論」について少し書きます。

これはここ最近いくつかのアイデアとインスピレーションを捻り出した際、その過程で発見した副産物を寄せ集めた泥団子の様なもので、何回かに分けてポツポツと書いていきたいと思います。

「ダサい」という表現は一般的に悪い意味でよく使われます。

ダサいジャージとか、ダサい着こなし、ダサいジーパンなどファッション関係でよく使われる表現であるように感じますが、ちょっと語源を調べてみると
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Wikipediaより

語源については田舎という単語を「だしゃ」と読み、形容詞化して「だしゃい」と読んだものが転じて「ダサい」となったとする説[3][2]東京都民が埼玉県民を「だって埼玉だから」と蔑視した言葉が簡略化されて「ダサい」になったとする説[5][6]1978年版『現代用語の基礎知識』では暴走族起源の言葉とする説を採用しているが、定かではない[1]

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と、ファッションセンスに限って使っていない言葉であり、僕もどちらかというと作品を作る際の完成度の落としどころを見極める際に「ダサいか」「ダサくないか」という言葉を使って思考します。

先日、古くからの友人の中脇君にある作品のアイデアを相談していたところ、「柴田君それメッチャいいアイデアやけど、カッコ良すぎやわ」と言われました。
あっそうかそうか!カッコ良すぎか~!もうちょっと頑張ってダサくしよう…という話をしていたのですが、よく考えてみるとアーティストがカッコいい作品を作るのは当たり前だし、それをダメ出しされて納得する自分って何?と悩んでしまいました。

感情の出所を探っていると、20代のころアート知りたいと思って図書館で見て憧れたバスキアやウォーホルの作品は間違いなくカッコいい作品でした。そしてもっと前の服飾の専門学校で受けたファッションの教育も間違いなくカッコいいモノを作る為のものでした。ただ、当時見た「誰でもピカソ」の会田誠さんの作品はそれまでのカッコ良さとはあまりにかけはなれたカッコ良さで、確信犯的ダサさはひっくり返ってカッコ良くなるんだ!と感じたのを思い出しました。

例えば電気グルーヴが無機質でクールなはずの電子音に物凄く人間味のある(下品な)歌詞を書いていたり、スマップがただの歌って踊れるハンサムなグループではなく時にはコントをやってカッコ悪いことさらけ出したりとか、ただのカッコいいで終わらずにダサさを意図的に加えることで本来のカッコ良さの厚みが増す様な感覚です。

なんとなくですがこういうダサさをここでは「ネオダサ」と名付けたいと思います。
こういう「ネオダサ」感が日本の美的感覚の根底にあって、日本古来の素晴らしい美術作品の支えになったり、時に海外に日本文化を紹介しようとした時に「ネオダサ」が邪魔になって伝わらなかったりという弊害があるな~というお話を今後続けていきたいと思います。

淀テク 柴田

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